短編小説読んでみた

福岡の便利屋

2014年01月

彫宇は、甲吉のそばに来て蹲ると、伯父さんがきている、と繰返した。

「急ぎの用事らしいや。仕事は切りあげていいぜ」

男は、多分仕事をもってきたのだ。それは金になる。

だが、男が仕事と一緒に屈辱と危険をもってきていることを、彫宇は知らない。


「はやく行った方がいい」

「しかし親方。これは、六ツ半(午後七時)までに仕上げる約束だ」

「ま、あとは誰かがやるさ」


外へ出ると、いきなり二月の風が顔のうえを吹きすぎた。

「仕事だ。蕎麦でも喰いながら話すか」

そういうと、徳十はもう一度甲吉をじっと見た。

この掛けもちの下っぴきが、いまも忠実な犬であるかどうかを、露骨に確かめたような、冷酷な眼だった。


甲吉の仕事は、ひとりの女を見張ることだった。

「女?」

「綱蔵の情婦(いろ)だ。この近くに住んでいる」

見張りは、六ツ(午後六時)から五ツ(午後八時)までの間でいい。

上野の鐘が、六ツを告げた。 

「お、先生じゃねえか」

北斎は聞えないふりをした。それよりも、心が空っぽになるほど、眼の前の風景に眼を奪われている。

「先生よう、身投げの思案かね」

ようやく北斎はふり向いた。

棒縞の袷に角帯、麻裏草履というなりで、濡れているような赤い唇をしている。

鼻筋がとおって、女のように華奢な細面だが、眼に尋常でない光が隠されているのを、北斎は見た。

「やになっちまうぜ先生。鎌次郎だよ。甚兵衛店にいた頃、隣にいた鎌次郎でさあ」

「思い出した。ついでに、お前が悪党だったことも思い出したよ」

「相変わらず口の悪い親爺だ。これでもおいら、富之助のだちの積りだぜ。親爺さんが知らないところで

ずいぶん面倒みてるんだ。金を貸したり、喧嘩を助けてやったりよ」

「富之助はいま、どこにいるんだ」

「おいら、富之助に貸しがあるんだ。賭場の貸しがよ。親爺さんの前だが、あいつはひでえ悪だぜ」

「なるほど、それは悪いの」

「富之助の借金を返してくんねえな。実の子だろ」 

凄惨な試合になった。

そうなったのは、前触れもなく藩主の宮内大輔忠勝が今日の試合を見に来たためである。

それが試技の相手を勤めた若侍たちにとっても、試技を申し出た仕官望みの清家猪十郎という浪人者にとっても

思いがけない不運になった。


たかが一浪人の都用試合に過ぎない試合が、すでに三番も続けられている。

最初の相手を勤めた近習役の半田弥助は、胸を打たれて血を吐いたし

二番手の瀬尾林之丞という御旗組の若者は脚を折られていた。

―あの腕は、もう使い物にならんな―。

僚友に運ばれていく樋口幸之進の右腕が、何かの柔らかい異物のように垂れ下がり

ぶらぶら揺れて行くのを見送って、判じ役の兵法指南役菅沼加賀はそう判断した。


「気に入らんな、あの野猿を、一度ぶちのめせ」忠勝は赤黒く怒気が溜った顔を甚三郎に向けた。

「まだ残っている者がおるか」

「いる。刈谷範兵衛という者がいる」


「お舅さま、洟、洟」

嫁の三緒の慌しい声に、範兵衛はう、うと唸って手の甲で糸をひいて垂れた洟をこすり上げた。 

「帰りに、俺のところに寄らんか」貝沼金吾が近寄ってきた。

馨之介は訝しむ眼で金吾を見た。

金吾は馨之介と、十年以上も同門の仲である。町で、坂上の道場と呼ぶ室井道場で

二人は龍虎という呼び方をされたし、金吾が振る竹刀の癖も、眼の前にある浅黒い皮膚の下に

どのように鍛えられた筋肉が潜んでいるかも、馨之介は知っている。


馨之介の父葛西源太夫は、馨之介が三つの時に死亡している。

病死ではなく、藩内の政争に巻き込まれて、ある重臣を刺殺しようとしたが失敗し、腹を切ったと聞いていた。


ある時期から馨之介は周囲の人間の眼が時おり奇妙に粘って自分に注がれるのを感じた。


金吾の家を訪ねることがなくなってから、一年ほど経っている。

その間菊乃と道で擦れ違うなどということもなく過ぎた。


十九のお葉が果実なら、菊乃はまだ蕾だった。

今夜は菊乃にも会えるかもしれない、馨之介の胸が軽く騒いだ。 

庭の奥で木鋏の音がしている。

そのたびにおしのは縫物の手をとめ、眼が醒めたような顔で庭をみた。

(今日も来なかった)とおしのは思った。眼の裏に、別れた夫の房吉の顔がある。

一度は訪ねて来るだろうという確信があった。房吉とは嫌いで別れたのではない。

一度会って話したいことがあった。


「地兵衛さん、そろそろしまって下さいな」

鋏の音が止み、時間がそこで断ち切られたような静けさの中に、へい、ありがとう存じますという声と

老人らしい空咳が響いた。


地兵衛は、もと岡っ引きだった。


「おっかさん、こないだ珍しい人に会った。宗次郎さん。憶えてないかしら、よくうちに遊びに来たけど」

「お嬢さん、その宗次郎という男は・・・・・・」

「そうね、ちょっと男前の感じかしら」

「その男なら、いま江戸にいねえ筈です」

「・・・・・・」

おしのは、おさわと顔を見合わせた。おさわの顔には怯えがある。 

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